29,30日とリビングライブラリーに参加していました。
そこでの語りの内容についてはここで書くべきではないので,リビングライブラリーに参加した,個人的な感想を書いておこうと思います。
私はアスペルガー障害当事者,むーんらいずさんの辞書役として,彼が本として貸し出された語りの場に同席しました。
辞書役とは言っても,実際にはあまり介入することはありません。一人(or ごく少人数のグループ)あたりの,生きている本(living books)の貸出時間は一回につき30分と短く限られているので,時間の経過を見て,本が語りたいと思っていることが十分語られるよう,話が横道に逸れているときに声かけをしたり,図書館利用者(聞き手)の障害についての基礎知識などの様子を見て,追加の説明をお願いしたりするくらいでした。
場合によっては,障害や本人についての誤解が生じないように追加の説明を辞書自らが行う必要がありますが,発達障害の中にも多様性があることをきちんと説明してくれるむーんらいずさんにはその必要はありませんでした。
あとは,自分自身の感じてきた違和感について,訥々と,真摯に語るむーんらいずさんに付いていくだけです。彼の人生を振り返った語りに,「読者」はみな真剣に聞き入り,また質問を投げかけていました。
一般的に,障害当事者自身による語りの場は,セミナー,講演会,学会の企画セッションなど多彩な場所で行われることがあります。
また当事者が自ら参加する場合に限らずとも,専門家の視点から,当事者理解のための間接的な語りが提供される場合もあります。
私自身も,障害を理解するためのセミナーに講師として呼んでいただく機会が多くありますが,いずれにせよそうした場には,ある種の違和感を感じることがあります。それは,聞き手と語り手に,ある明らかな不均衡があることです。
その不均衡とは何だろうと考えてみました。
聞き手は自らの素性を語り手に認識させることなく,「聴衆」として語りの場に参加します。演者,つまり語り手は,個人個人のひととなりがはっきりと見えない聴衆に向かって,ある意味一方的に話をする必要があります。
仕方のないことですが,「聞く」と「聞かれる」という一方向性があるという意味で,コミュニケーションに不均衡があります。語り手と利き手には,相互の対話は存在していません。
語りの場が終わった後,聞き手だった人が演者に直接,感想や質問などを個別に伝えに来てくださる場合もあります。しかしそれ以外,演者にとっては,聞き手を対話の相手として感じられる機会はありません。または聞き手にとってみても,講演中の演者は「演者」という社会的な仮面をかぶった,顔の見えない相手となってしまっているのかもしれません。
直接の感想や質問でなくても,例えば講演の中では,聴衆からの質問を受けつけるために用意される時間もあります。
ではこちらは「対話」と呼べるでしょうか。そのときにも厳密には「対話の相手として」質問者と向き合うことは少ないと感じます。演者が質問に答えるときには,ただ質問者に向かって話すのではなく,会場の聴衆全体に向けて話すことを,暗黙のうちに強いられるからです。また質問者も,多くは講演の流れや来客の雰囲気を意識しながらの質問となりますから,やはり直接的な対話とは呼びにくいところがあります。
リビングライブラリーは仮想的な図書館として設定された場なので,「読み手」と「本」という関係を設定しています。ここには一見すると,閲覧する者と閲覧される者,という一方的な関係性があるように見えます。私も,講演よりもさらに不均衡さが際立つ場なのではないだろうかと,実際に参加する以前には思っていました。
ところが実際にはそうではありませんでした。
リビングライブラリーでは,まず読み手と本が出会ったそのときに,こんにちはと挨拶を交わすことからその場が始まります。別に挨拶をするようにルールを決めているわけではないので,挨拶は一般的な礼儀としての,自然発生的なものです。また挨拶で名乗る名前が実名ではなく,仮名であることもあります。名前を名乗らないときもあります。しかし少なくとも,お互いが挨拶を交わし合う距離で出会い,パーソナルな空間を共有することからその場が始まります。
そして本は語り出します。自分が理解して欲しいと思っていること,自分が好きなこと,苦手なこと,読者の思わぬ質問にも,(これはそうされることを前提とした場の効果ですが)気を悪くしたり,驚くこともなく,真摯に答えてくれます。
「読者」と「本」という設定から生まれた,30分というほんのひとときの出会いですが,それまで両者の間にあった距離は,瞬間的に「対話の距離」にまで持ち込まれてしまいます。(スタッフ側の様々な工夫や配慮の効果もありますが)なんというか,「素の状態」で語り合えてしまうのです。
・目も見えず,耳も聞こえない人
・薬物中毒だった人
・エロ小説を書いている作家
・ホラー漫画家
・脳に障害を持っているといわれる人,などなど。
多くの人は,彼ら彼女らを敬遠し,距離感を感じていることが多いでしょう。そうした人と,一人の人間同士として,話し合えてしまう。
これは不思議な感覚です。どうやら図書館というメタファーは,多くの人々の耳目を引きつけるきっかけに過ぎないようです。その結果として「語り手と対話する」という構えを持った者同士の,少人数での出会いを演出することが,この不思議な「素の」感覚を生んでいるのでしょう。
普段の生活では,マジョリティとマイノリティの間にある様々な壁,社会的な距離や居場所の違いを感じていても,その30分間が壁や距離を崩し縮める。リビングライブラリーという仕掛けはそんな力を持っていることを実感しました。
30分が過ぎた後,リビングライブラリーの語りの場を離れた「読者」にとって,いったん対話の距離まで縮められた主観的な距離感覚はどうなっていくのだろう,と思います。今後も近しく感じてくれる読者もいるでしょうし,私たちもそれを望んでいます。またはその逆の効果を持つこともあるのかもしれません。が,そんなことはきっとないはず,と肯定的に信じています。この部分は,残念ながら合理的には説明できません。対話の場に居合わせた私自身が,なんとなくそう感じるだけです。
リビングライブラリーが終わった後は,マジョリティに対して自分自身を語ることの意義を,ポジティブ・ネガティブな両面を合わせ,参加者全員で語り合うことができました。自分自身の立場を明らかにしながら,他者に説明するという,日頃経験することのない作業を通じて,多くのことに気づかされた,という意見が印象的でした。
話題は少しそれますが,先日,私の友人から聞いた話が印象に残っています。その友人は,剣道を長いことやっている男なのですが,彼はあるとき老師範から,
「あなたは『礼儀』という言葉の意味がわかりますか」
と聞かれたそうです。そのとき友人は考えた末に,
「礼儀とは,相手を敬うことである」
と答えました。すると師範は,
「全く違う」
と否定したそうです。
「礼儀とは,相手を敬うことではありません。礼儀の『礼』とは,相手を認めることです。相手がそこにいることを,ただ,認めることです。そして『儀』とは,そのことを形に表すことです。礼儀とは,相手がただそこににあることを,自分は認めていますよ,と相手に伝えることなのです。」
その場を共有する者同士の自然な挨拶と,パーソナルな距離感の共有から始まるリビングライブラリーは,形式にこだわり,お互いを縛るためのものでしかない規範意識や,多様性を否定する固定観念を,いつもとは違う方向から見る,ちょっとした気づきを与えてくれるのかもしれません。そこには対話の相手のありのままを認める『礼儀』があったのだなぁと思いました。
・・・いろいろと堅苦しく書いてしまいましたが,何より,本たちは皆さん「楽しかった!」とおっしゃっていました。それが一番,このイベントの持つエネルギーを表しているなぁ,とも思います。
運営側のスタッフの末席にいる人間として,それを手放しに喜ぶことには特に自制的になる必要がありますが,まずいったん安心しました。
今回は感想しか書いていないので,参加した方以外には,わけがわからない記事になってしまったかもしれません。他にもいろいろと感じるところがありましたが,まだ上手く言語化できていないのでこの辺にします。またこのようなイベントの機会があれば,ぜひ皆さんにもこの対話の感覚を体験していただきたいと思いました。